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アレクサンドル1世

(アレクサンドル・パーヴロヴィチ・ロマノフ、Александр I、Александр Павлович Романов、Aleksandr I、Aleksandr Pavlovich Romanov、1777年12月23日 - 1825年12月1日)


[アレクサンドル1世]

ロマノフ朝第10代ロシア帝国皇帝(在位: 1801年 - 1825年)

およびポーランド立憲王国初代国王(在位: 1815年 - 1825年)

ならびにフィンランド大公国初代大公(在位: 1809年 - 1825年)

皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの第一皇子。


父帝暗殺後、帝位を継承し、当初は、自由主義的改革を志向し開明的な政策をとったが、ナポレオン戦争を経て、治世後半は強権的反動政治に転じた。

外交政策では、ナポレオン1世失脚後開かれたウィーン会議で主導的な役割を演じ、以後のヨーロッパにおける君主主義、正統主義的反動体制の確立に尽力した。

また、キリスト教倫理観に基づく神聖同盟を結成してヨーロッパ諸国のあらゆる自由主義運動や国民主義運動の弾圧に協力した他、オスマン帝国に対する対イスラム十字軍を目論んだ。

アレクサンドル1世の治世中、ロシア帝国は、フィンランドとポーランドを獲得した。

歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ、矛盾に充ちていた。

生い立ち

1777年12月23日パーヴェル・ペトローヴィチ大公(のちのロシア皇帝パーヴェル1世)とヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲンの娘マリア・フョードロヴナ(ドイツ名ゾフィー・ドロテア)の第一皇子としてペテルブルクに生まれる。

命名に当たっては、祖母に当たる女帝エカテリーナ2世によってアレクサンドル・ネフスキーにちなんで命名された。

しかし、アレクサンドルは生まれてすぐに祖母であるエカテリーナ2世によって両親のいるガッチナ宮殿から引き離され女帝の手元で養育された。

アレクサンドルの性格と行動は、以後の環境と教育によってもたらされたものであると考えられている。

エカテリーナは実子パーヴェルと折り合いが悪く、パーヴェルを抜かして皇孫たるアレクサンドルを帝位につけることも念頭にあったと伝えられる。

アレクサンドルは祖母と父との間にあって、上手く立ち回る術を身につけた。

こうした後に狡猾かつ偽善的と言われる性格は、さらにアレクサンドルに施された教育によって一層強くなった。

すなわち、7歳から11年間家庭教師としてアレクサンドルに教育を施したのは、スイス人のジャコバン主義者であったフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプ(ラアルプ)であった。

ジャン・ジャック・ルソーに心酔し根っからの共和主義者であったラ・アルプの影響によってアレクサンドルは自由主義的傾向を強く持つようになった。

しかし、ラ・アルプによる教育は結婚によって中断され、中途半端な理想論を持たせるだけに終わった。

ラ・アルプと並び傳育官としてアレクサンドルの礼法と健康を担当した軍人ニコライ・サルトゥイコフ大佐からは、ロシアの伝統的な皇帝(ツァーリ)専制の原則を叩き込まれた。

若い頃のアレクサンドルはフランス革命やポーランドの反乱に同情的であったが、サルトゥイコフによって、毎週金曜日に父パーヴェルの住むガッチナに赴き、閲兵式に臨席し、自ら中隊を指揮した。

パーヴェルの即位後は、以前の人類愛に対する共感は蔭を潜め、冷笑的かつ曖昧な態度を身につけるようになった。

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帝位継承

1793年アレクサンドルはバーデン大公女ルイーズ(結婚後は、エリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚した。

1796年11月エカテリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位した。

パーヴェル1世は貴族層を中心に多くの人々の反感を買い、暗殺が計画された。

1801年3月11日深夜から翌12日にかけてニコライ・パーニン伯、ペテルブルク総督パーレン伯を中心とする近衛連隊がパーヴェル1世の住むミハイロフスキー宮殿に乱入し、パーヴェルは暗殺された。

パーヴェル1世暗殺に関して、アレクサンドルの役割については歴史家の間で議論が交わされている。

アレクサンドルは陰謀について事前に計画を知っていた。

また、決行の日を決めたといわれるが、実際に父帝が殺害されたことに対して非常な衝撃を受けた。

アレクサンドルは、罪悪感にさいなまれると同時に、父、さらに祖父ピョートル3世の非業の死を目の当たりにし、より慎重になった。1801年3月23日に即位した。

秘密委員会

[アレクサンドル1世]

帝位に就いたアレクサンドル1世は、早速「自由主義的」改革に着手した。

アレクサンドルは、秘密委員会w:Private Committee(「公安委員会」という皮肉な名称であった)を設立した。

この委員会は、アレクサンドルの「若き友人たち」すなわち、パーヴェル・ストロガノフw:Pavel Alexandrovich Stroganov、ニコライ・ノヴォシリツェフw:Nikolay Nikolayevich Novosiltsev、ヴィクトル・コチュベイw:Viktor Kochubey、アダム・チャルトルスキw:Adam Jerzy Czartoryskiら西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちによって組織された。

秘密委員会はアレクサンドル自身が議長となって、活発な議論が行われた。

議論はロシア帝国の改造、すなわち専制から法的秩序の確立のため、憲法を中心とする立憲制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革といった問題について討議がなされた。

秘密委員会での議論はその多くが空論のまま終わった感があるが、それでもいくつかが具現化された。

中央官庁の官制改革が実施され、ピョートル大帝によって創設された参議会(参事会)制は廃止され、代わって外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部(国民啓蒙)、司法、商務の8省庁が設置された。

各省には大臣が置かれ、連絡・調整機関として大臣委員会が組織された。

秘密委員会では農奴解放、土地改革についても議論を繰り広げたが、パーヴェル・ストロガノフの農奴解放推進論は結局、1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令を待たなければならなかった。

この段階では、1803年2月20日の勅令で領主が自発的に農奴を土地つき、有償で解放し、自由耕作民とするという限定的な内容であった。

アレクサンドルと秘密委員会の構想した改革は、貴族層を中心に保守派の反発を招いた。

また、アレクサンドルの「若き友人たち」も現実に直面し、1807年に秘密委員会は解散を余儀なくされた。

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スペランスキー改革

1801年に開始された立憲制導入を目標とする法制改革、国制改革は、ミハイル・スペランスキーによって担われることとなった。

アレクサンドルから改革案作成を命じられたスペランスキーは極めて大胆な「国家改造」とも呼べる法制改革案を提案した。

改革案では基本姿勢として憲法の制定と皇帝の下に立法・行政・司法の各国家機関の整備と法の支配による立憲君主制の確立が掲げられ、具体的には、皇帝の任命による国家評議会と、間接選挙による国会(ドゥーマ)の設立であった。

しかし、スペランスキーの国制改革案はあまりにも時期尚早であり、アレクサンドルの姉で帝位に執着を見せていたエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女をはじめ、貴族・官僚層の憤激を買った。

スペランスキーへの排斥が激化する中で、アレクサンドルは国制改革の推進に躊躇するようになる。

また、アレクサンドルの念頭には、ナポレオン・ボナパルトとの関係悪化があった。

アレクサンドルはナポレオンとの対決に備え国内における対立に終止符を打つ必要性に迫られた。

1812年3月スペランスキーは国家顧問を解任されニジニ・ノヴゴロドに追放された。

ヨーロッパに対する影響

アレクサンドル1世は、国内政治よりも外政における業績に顕著なものが見られる。

事実、アレクサンドルの壮大な想像力は、ヨーロッパにおける諸問題により強く惹きつけられていた。

アレクサンドルは即位直後、父帝の中立路線を翻し、1801年イギリスと同盟した。

同時に神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)と同盟を協議し、さらにプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とはメーメル(現在のクライペダ)で同盟を締結した。

こうした各国との同盟の背景には、ナポレオン・ボナパルトの存在があった。

アレクサンドルは始め、ラ・アルプの影響からナポレオンに対して敬意を示していた。

しかし、フランスを訪問したラ・アルプはナポレオンに対して彼が真のジャコバンどころか、軍事独裁者として片鱗を鋭く見て取り、帰国後、アレクサンドルに対して全否定する報告を提出した。

このラ・アルプの酷評に加え、1804年にナポレオンの命でフランス・ブルボン家の王族であるアンギャン公が処刑されたことでアレクサンドルはナポレオンの野心に恐怖を抱くようにすらなっていた。

アンギャン公処刑を契機に露仏関係は冷却化し、国交を断絶するに至った。

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ナポレオン包囲網

[アレクサンドル1世]

アレクサンドルは、1804年12月フランス皇帝に即位したナポレオンを「ヨーロッパの圧制者、世界の平和の妨害者」として1805年イギリス、オーストリアと第三次対仏大同盟を結んだ。

アレクサンドルは、英国に派遣したノヴォシリツェフに対してウィリアム・ピット首相(小ピット)、キャッスルレーw:Robert Stewart, Viscount Castlereagh外相にナポレオンに対する勝利はフランスを専制者から解放することのみならず、ヨーロッパに平和をもたらす人類の神聖な権利であると説いた。

キリストの意志による神の任務を遂行する然といった主張には、後の神聖同盟の萌芽が見て取れる。

一方ナポレオンは対仏大同盟の一角を崩すためにロシアに対しては、ポーランド、オスマン帝国、ペルシアと同盟関係を結びロシアを牽制した。

また、ロシア国内では、アレクサンドルの皇弟コンスタンチン・パヴロヴィッチ大公が対仏大同盟からの離脱を唱えるなど国内にも反対勢力が形成されたが、ナポレオンを「アンチ・キリスト」と見なすアレクサンドルの戦意は旺盛であった。

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大陸封鎖

1805年12月2日のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)に破れたアレクサンドルは這々の体でロシアへ逃走した。

次いで1807年2月のアイラウの戦い、6月のフリートラントの戦いで敗北したアレクサンドルはナポレオンとの間に講和を結ばざるを得なくなった。

ここに両者はプロイセン・ロシア国境のニエーメン川に浮かぶいかだの上で始めて顔を合わせた。

7月7日ティルジットの和約に合意する。アレクサンドルは対仏大同盟からロシアを離脱させ、対英経済封鎖網である大陸封鎖令に参加することとなった。

同時にロシアは英国と断交、宣戦布告することとなる(英露戦争)。

同時にナポレオンはアレクサンドル1世にフィンランドを与える約束をしたことから、スウェーデンと戦争(第二次ロシア・スウェーデン戦争)となり、1809年ウィーン会議を経て、フィンランドを併合する。

さらに1806年からトルコと戦争状態に入り、ベッサラビアを併合した。

ナポレオンに対して、誠実な同盟者として振る舞っていたアレクサンドルであったが、ティルジットでの会見から1年後の1808年10月12日エルフルトの会談では、同盟を再確認したものの、ナポレオンによって議題として取り上げられたポーランド問題をめぐり両者の間に緊張状態が拡がることとなった。

そもそもロシア国内においてはティルジットの和約に対して「フランス革命の申し子」「コルシカの成り上がり者」「アンチ・キリスト」との同盟に保守層(つまりは貴族)の批判が上がっていた。特にこの時期は上述の通り、スペランスキーによる立憲制導入の試みが行われようとしていた時期でもあり尚更であった。

これに加えて、貴族たちは、自分の領地から収穫される農産物をイギリスに対して輸出し利益を上げていたため、大陸封鎖は経済的な点から言って死活問題でもあった。

ナポレオンはアレクサンドルの誠実さを試すために、さらにはボナパルト家と諸王室との血縁・縁組を渇望しアレクサンドルの妹アンナ・パーヴロヴナ大公女との結婚を申し込んだ。

アレクサンドルはアンナが当時15歳で年端もいかないことと、皇太后マリア・フョードロヴナの反対を口実にこの申し入れを拒絶した。

1809年ナポレオンはジョゼフィーヌとの離婚と、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの婚約を発表した。

さらにこの後、フランス軍はオルデンブルク大公国に進駐した。

同大公国にはアレクサンドルの妹エカテリーナ大公女が大公妃なっていたため、露仏間の同盟には決定的な亀裂が走ることとなった。

アレクサンドルは、秘密裏にフランスと決裂の時を待ち軍を動員した。

ナポレオンもロシアが大陸封鎖令に違反していることを口実にロシア遠征の準備を開始し、ワルシャワ公国とプロイセンに大陸軍の集結を開始した。

アレクサンドルとナポレオンは再び共に点を抱かぬ関係へと戻った。

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祖国戦争(ロシア遠征を撃退)

1812年6月24日ナポレオンの率いる総勢69万1500人の大陸軍は、ロシア国境のネマン川を渡河し、ヴィルノに集結し、ロシア領内に侵入した。

ロシア軍はこれを迎え撃たず、後退する焦土作戦を採った。

アレクサンドルは、後退策が消極的であるとの批判が起こると総司令官バルクライ・ド・トーリを解任し、後任にクトゥーゾフ将軍を任命した。

クトゥーゾフはさらに軍を後退させ9月14日ナポレオンはモスクワに入城した。

しかしその夜モスクワは大火に見舞われた。ナポレオンは撤退を決断しフランスが誇る大陸軍は退却を開始した。

アレクサンドルは1813年と1814年の諸国民解放戦争に乗じて、軍を進め、パリに入城した。

人物と評価

また、スウェーデン王太子カール・ヨハン(元フランス軍元帥ベルナドット)にフランス王即位を勧めた事もある。(後ウィーン会議でノルウェー併合も支持する)

彼もまたウィーン体制で反動化した君主の一人である。

彼はロシア帝国臣民からは人気も高く、また大公に即位したフィンランドでは解放者として迎えられるなど英邁さを示したが、後の反動化によりデカブリストの乱を引き起こしてしまう。

しかし非常に敬虔な君主であり、フィンランド人を始め、現代でも信奉者は絶えない。

アレクサンドル1世の退位後には、彼自身が不死の伝説(各地を放浪する聖者になったという伝説)となって伝えられている。

自由思想に共鳴した若き日と保守反動姿勢をとった晩年との落差を宗教的な目覚めに求める説もある。

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