上に戻る

ジャン・フランソワ・ミレー

(Jean-Francois Millet, 1814年10月4日 - 1875年1月20日)


ジャン・フランソワ・ミレーは、19世紀のフランスの画家。

生涯と作品

[]

パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。
ジャン・フランソワ・ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがバルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられる。

バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたジャン・フランソワ・ミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。
ジャン=フランソワ・ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年(昭和8年)のことであった。

1977年(昭和52年)、そのジャン・フランソワ・ミレーの『種まく人』がサザビーズのオークションで競り落とされ、日本に請来された時は、大いに話題になった。

ジャン・フランソワ・ミレーは、1814年、フランス、ノルマンディー地方の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。
大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、故郷の海岸の風景を描いたものである。
1ジャン・フランソワ・ミレーが、19歳の時、グリュシーから十数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始める。

ジャン・フランソワ・ミレーの20代

[] 22歳の1837年、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(1797−1856)に師事する。 26歳の時、サロン(官展)に初入選するが、生活は相変わらず貧しかった。
1841年、ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノという女性と結婚するが、彼女は3年後の1844年、貧困のうちに病死する。

上に戻る

ジャン・フランソワ・ミレーの30代

1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。
このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ジャン・フランソワ・ミレーはパリの南方約60キロの、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。

『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。
ジャン・フランソワ・ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などは、バルビゾン移住後の作品である。

ジャン・フランソワ・ミレー、2枚の『種まく人』

[]

ミレーの代表作のひとつである『種まく人』には、画面のサイズから構図までほとんど同じと言ってよい2つのバージョンがあることは、よく知られている。
2枚の『種まく人』のうち1枚はボストン美術館にあり、もう1枚は山梨県立美術館に所蔵されている。
2つの絵は細部までほとんど同じと言ってよいくらい似ている。
しいて言えば、ボストンの絵の方が人物の輪郭線がはっきりしているのに対し、山梨の絵は絵具が厚塗りで、筆使いが荒々しく、背景の黄色が目立つのが特色であるが、優劣は決めがたい。 1850年のサロンに出品されたのが果たしてどちらの『種まく人』であったのかについても、いまだに定説を見ない。

ボストンの絵は、日本美術の収集家としても知られるクインシー・A・ショーの旧蔵で、1917年にボストン美術館に入っている。
機会があればボストンへ泊まって2つの『種まく人』を比べてみてほしい。
一方、山梨の絵は、ジャン・フランソワ・ミレーの伝記作家でもあった内務省の役人アルフレッド・サンシエから、アメリカの鉄道王W.H.ヴァンダービルトに移り、フィラデルフィアのプロビデント・ナショナル銀行の所蔵を経て、1977年、日本へもたらされたものである。

代表作

種まく人 Le semeur (1850年)(ボストン美術館、山梨県立美術館)
晩鐘 L'Angelus (1857-1859年)(オルセー美術館)
春 Le printemps (オルセー美術館)

上に戻る

スポンサード リンク

エルミタージュ美術館10倍活用術!!

copyright©エルミタージュ美術館展 10倍活用術!! All Rights Reserverd.