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パーヴェル1世

[パーヴェル1世] (パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ、1754年10月1日 - 1801年3月23日、在位1796年 - 1801年)


サンクト・ペテルブルグ生まれ、サンクト・ペテルブルグで殺害さる。

ロマノフ朝第9代ロシア皇帝。

父はピョートル3世。母はエカチェリーナ2世。


ホルシュタイン公を兼ねていたが、1773年にデンマークに返還した。

強権的な母エカチェリーナは、孫のアレクサンドル(のちのアレクサンドル1世)を寵愛し、パーヴェルには冷たかったという。

母は、帝位継承者についてもパーヴェルではなくアレクサンドルを望んでいたといわれるが、そのことを遺言に残す前に死去したため、パーヴェルが母の跡を継いで即位することができた。

また、母が多くの愛人を持ったことから、パーヴェルはピョートル3世との親子関係を疑われてもいた。

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母の暗殺を計画したこともあるとされるが、真相は定かでない。

帝位に就いたパーヴェルは、それまで先帝の遺言や全国会議によって次期皇帝が決められていたことを改め、帝位継承法を定めて男系男子による帝位継承のルールを確定し、女性が帝位に付くことを禁じた。

これについては、母への私怨によるものであるとする見方もあるが、それまで曖昧であったロシアの帝位継承のルールを明確に定めたことは大きな功績とされる。

[パーヴェル1世]

戴冠式の日に発布された帝位継承法と「農民の日曜労働を禁止する勅令」は有名であるがその治世に農奴制はかえって強化されたといわれている。 フランス革命に揺れる国際情勢の中での即位であり、当初はイギリス・オーストリア・オスマン帝国などとともに第二次対仏大同盟を結成するなど反仏の姿勢をとった。

しかし、ナポレオン・ボナパルトが台頭し、彼が第一統領に就任した頃から、パーヴェルは彼を反革命だと判断して信奉するようになり、それまでとは反対にフランスと手を結んで、イギリスの植民地であるインドへの遠征を企てた。

1800年から1801年にかけて北欧やプロイセンをさそって武装中立同盟を結成したが、大英帝国と対立したために、ロシア国内からの不満が高まった。

1801年3月、これらの動きに反発する近衛将校たちによるクーデターが発生してパーヴェルは殺害されてしまい、クーデターに一枚かんでいたともいわれるアレクサンドルが帝位に就いた。

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