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アレクサンドル2世

(Александр II Николаевич Романов、アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・ロマノフ、1818年4月29日 - 1881年3月13日、在位1855年 - 1881年)


[アレクサンドル2世]

モスクワ生まれ、サンクト・ペテルブルグにて暗殺

ロマノフ朝第12代ロシア皇帝

ポーランド立憲王国第3代国王

父はニコライ1世、母は皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ(プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘。

ドイツ名シャルロッテ


アレクサンドル2世は、ニコライ1世の長男として生まれた。

何事にも積極的で頭も良く、ドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、軍事・外交・財政についても熱心に学んだ。

行動的で、ヨーロッパ諸国はもちろん、歴代皇帝が1度も訪れたことのないシベリアも訪れている。

1855年、ニコライ1世がクリミア戦争のセバストポリ要塞での攻防戦が激しく戦われている最中に急死したため、彼がアレクサンドル2世として即位した。

アレクサンドル2世は、パリ条約で黒海艦隊の放棄を認め、いったん南進策を中断することでクリミア戦争に決着をつけ、内政面に全力を注いだ。

クリミア戦争の敗北で、ロシアの支配層は大きな衝撃を受けた。

とりわけ近代工業の立ち遅れが明らかになると、資本主義の発展を妨げている農奴制の改革が不可避となった。

[アレクサンドル2世]

そこでアレクサンドル2世は、農奴解放が「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」として、1861年、農奴解放令を発して改革に着手した。

この改革は、地主の利害関係に基づいて行われたため、きわめて不徹底なものだった。

しかし、この解放令で、4700万人の農奴がともかく法的に自由となり、工場の労働力が大量に生み出され、ロシアの資本主義の発達に道を開くことになった。

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これと並行して、地方議会の設置・陪審制の採用などの司法制度の整備・大学の自由の拡充・徴兵制の施行など、後世の史家から「大改革の時代」と評される近代化政策を行った。

1867年、アラスカを米国に売渡した。

1875年、日本と取引し千島列島をサハリンと交換した。

しかし、不十分な農奴解放への農民の不満と、それを批判し、専制政治を打倒しようとするナロードニキ運動の激化、ポーランドの独立反乱(1863年〜1864年)などに直面すると、警察・軍隊による力ずくの弾圧でこれに対応するとともに、改革を後退させ、専制政治を強化した。

皇帝は、それまで登用していた自由主義的官僚を遠ざけ、代わって保守的・国粋的な人物の意見に耳を傾けるようになった。

クリミア戦争の敗北でバルカン方面への南進策は中断させられたが、イギリス・フランスなどのアジア植民地化に対抗して、隣接諸国への領土拡張政策を推進した。

アイグン条約(1858年)・北京条約(1860年)でアムール川以北とウスリー江以東を清から割譲させ、トルキスタン地方とカフカス地方を併合し、露土戦争(1877年〜1878年)で一時バルカン半島の大半を奪った。

[アレクサンドル2世]

こうしてアレクサンドル2世の時代に、ロシアは、地球の陸地面積の6分の1を占める世界最大の領土を持つ帝国となったのである。

このような内外政策に対しては国民の反発もまた強くなっていった。

「人民の中へ」(ヴ−ナロード)をスローガンにしていたのでナロードニキ(人民主義者)と呼ばれていた人々は、皇帝と地主の権力は農民一揆で打倒できるとし、農民の説得に情熱を傾けたが、思うような支持を得られなかった上、政府の厳しい弾圧にあった。

1861農奴解放令等ツァーリズム体制近代化を推進したが、治世後半は反動化の方向をとり。本心からの自由主義者ではなかったと言われている。

彼らの一部は急進化し、皇帝や高官を暗殺することにより専制政治を打倒しようとし、テロに走った。

アレクサンドル2世は1867年、フランスを訪問中、パリで襲撃されたが、このときは難を逃れた。

その後も皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、1881年、「人民の意志」党員の投じた爆弾により、暗殺された。

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