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ニコライ2世

[ニコライ2世] (Николай II、Николай Александрович Романов、Nicholai II、Nicholai Aleksandrovich Romanov、ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ1868年5月18日(ユリウス暦では5月6日)-1918年7月17日(ユリウス暦では7月4日) 在位1894年-1917年)


サンクト・ペテルブルグ生まれ、エカチェリンブルクにて射殺さる

ロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝。

アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第二王女)の第一皇子として生まれる。

皇后は、アレクサンドラ皇后。

皇子女には、オリガ皇女・タチアナ皇女・マリア皇女・アナスタシア皇女・アレクセイ皇太子がいる。


ロシア正教会などで聖人に列聖された。

皇太子時代の1891年5月11日、訪日中に巡査津田三蔵により襲撃される(大津事件)。

26歳でロシア皇帝に即位し、近代化に悩むロシアに君臨することになる。

同じ年にドイツ帝国のヘッセン・ダルムシュタット公の娘でイギリスのヴィクトリア女王の孫娘でもあるアレクサンドラと結婚した。

ニコライ2世は初め、父の政策を受け継いで蔵相ウィッテを重用したが、のちにこれを退けた。

先祖伝来の積極外交政策を継承して、満州の権益獲得や遼東半島の租借などによって極東への進出を確実に押し進めていたが、同じころ朝鮮半島に勢力を及ぼし始めた日本と利害が対立するようになり、1904年に両国の間に日露戦争が勃発し、敗北。

莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が1905年1月に血の日曜日事件を起こすと、ニコライ2世はウィッテを再登用して戦争の早期終結に当たらせた。

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さらに10月、ゼネストが発生すると、皇帝の専制権が残存する憲法を発布して、国会(ドゥーマ)開設を国民に約束した。

国会が開催され、初代首相にストルイピンが登用されたが、後にニコライ2世は彼と対立すると見限って罷免した。

同じころ、皇帝夫婦は当時不治の病であった血友病患者アレクセイ皇太子の将来の身を案じていた。

あるときラスプーチンという祈祷僧が宮廷に呼ばれた。

[ニコライ2世]

ラスプーチンが祈祷を施すとアレクセイ皇太子の病状が好転したのである。

このことからアレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。

その後もラスプーチンは度々宮殿に呼び寄せられ皇太子の命を救った。

皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンもいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。

1914年6月に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは連合国に参加してドイツと戦いを開始した。

近代兵器を擁するドイツに大敗を喫したことから、ニコライ2世は司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公を罷免し、自ら前線に出て指揮を執った。

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皇帝不在の都ペテログラードでは、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導する。

人気のなかった二人に対して、貴族から民衆までが"ドイツ女""怪物"と蔑んで憎悪の対象とした。

1916年12月ラスプーチンが暗殺され、1917年1月に改善しない戦況に苦しむ民衆が蜂起する。

軍隊の一部も反乱に合流して、ロシアは完全に混乱に陥った。

ケレンスキーが指導する2月革命が発生し、帝政崩壊。

1917年3月2日、ニコライ2世は プスコフで退位させられ、8月に皇后や5人の子どもとともにシベリアのトボリスクに流された。

さらにボルシェヴィキによる十月革命が発生してケレンスキー政権が倒されると、エカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁された。

レーニンの命令を受けたチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキー率いる処刑隊により、1918年7月17日に皇帝一家はシベリア、イパチェフ館の地下室で全員銃殺処刑され、近くの村に埋められた(→ロシア革命)。

[ニコライ2世]

皇帝一家の最後の状況については長年さまざまな噂が流れていた。

末娘アナスタシア皇女を名乗る女性がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。

一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年に解体された(ロシア大統領になった後に、彼はこの件について釈明し、謝罪している)。

その後、1989年になって皇帝一家の遺骨が発見され、いったん埋め戻された。

1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。

その後、改めて掘り起こされた遺骨が、日本に保管されていた『大津事件血染めのハンカチ』とDNA鑑定が行われた結果、遺骨がニコライ2世本人のものと判明。

ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。

この列聖には、エリツィンの意向が働いていた。

ニコライ2世はひ弱で意志弱く、無能な皇帝として描かれることが多い。

実態は写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人であったという。

乱世に誕生した運の悪い人物である。

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